御開帳に等順を思う ー浅間山の大噴火と等順ー 

2015年04月11日

 天明3年(1783)日本災害史上最大といわれる浅間山の大噴火がおこりました。その時の溶岩が、あの群馬県嬬恋村「鬼押出し」の景観をつくりました。浅間山大噴火は鬼押出しから麓へかけて嬬恋村地域に甚大な被害を与えました。現在の研究では、死者1,523人・被害戸数2,065戸・死馬642頭と推察されています。(利根川水系砂防事務所2004年の調査による)

 なかでも鎌原(かんばら)地区はほぼ全域が土石なだれに呑み込まれ、一瞬にして地下に消えてしまった地域で,「日本のポンペイ」と呼ばれています。477人の村人が亡くなり、生き残ったのはわずか93人でした。生死を分けたのは、村の高台にあった観音堂への避難でした。

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<群馬県嬬恋村鎌原 観音堂>

 

 現在、観音堂の石段は15段ですが、昭和54年の発掘調査により、地下にはさらに35段が埋没していることがわかりました。そして最下段には2名の女性の遺骨が発見されました。あとわずかというところで、土石なだれにより生き埋めになってしまったのです。

 鎌原地区では230年前の悲惨な大災害を忘れないための『浅間山噴火大和讃』が伝承されてきました。月2回の女人念仏構で唱えられる『浅間山噴火大和讃』では、観音堂に避難した者たちの、当時の様子が生々しく語られます。

「残りの人数(ひとだね)九十三 悲しみ叫ぶ哀れさよ

 観音堂にと集まりて 七日七夜のその間

 呑まず食わずに泣きあかす」

 やがて隣村から救援がやってきました。しかし、夜毎悪夢にうなされ、恐怖におびえた心は安まることがありません。そこで、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めます。

「数多(あまた)の僧侶を従えて ほどなく聖(ひじり)も着き給(たま)い

 施餓鬼(せがき)の段を設ければ のこりの人々集まりて

 みなもろともに合唱し 六字の名号唱(とな)うれば

 聖は数珠(じゅず)を爪(つま)ぐりて 御経読誦(どくじゅ)を成し給う」

 「六字の名号」とは「南無阿弥陀仏」のことです。そして、ここでいうが、善光寺聖・等順だといわれています。等順は寛永寺護国院の住職から、前年善光寺別当大勧進貫主(かんす)に就任したばかりでした。自ら被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走し、そして流死者の回向(えこう)を30日間施行しました。最後に被災者一人につき白米5合と銭50文を3,000人に施したといいます。(『天明雑変記』中巻による)被災者たちは等順の念仏供養により「心のはちすも開かれて 泣き声止みしも不思議なり」と、落ち着きを取り戻しました。

 翌年、善光寺では浅間山噴火による死者の追善大法要を執り行いました。被災地には1,490名の名前が書かれた御経塔婆木が送られました。(村井勇著『浅間山 -天仁・天明の大噴火』による)

 天明年間は自然災害と天候不順により、いたるところで大飢饉となった時代です。餓死者が続出し、人々は救いを求めていました。等順は善光寺貯蔵の麦米を放出し、民衆に施しました。大勧進表大門の手前にある放生池(ほうしょういけ)は、救済を受けた人々が等順の恩に感謝して、集まり掘ったものといわれています。

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        <大勧進前の放生池>

 

 さらに等順は人々の心の平安を取り戻すため、『血脈譜(けちみゃくふ)』とよばれるお守りを大量に授与します。正式には『融通念仏(ゆうづうねんぶつ)血脈譜』といい、釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図です。現住職から授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁することを意味します。等順はそれまでの面倒な儀式を省略し、180万枚におよぶ『血脈譜』を授与したといいます。これが大変な評判となり、全国から善光寺へ『血脈譜』を求める参拝者が集まり、落語『お血脈』の題材にもなりました。

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        <現代の『融通念仏血脈譜』>

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<等順の名も見える(付箋右)。右端に見えるのが現貫主名>

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 <「御血脈頂戴の図」『善光寺道名所図会』三巻ノ二十八>

投稿者:善光寺街道歩き旅推進局

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