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善光寺御開帳に 等順を思う
2015年03月20日
善光寺の御開帳がいよいよ間近となり、
関係者の方々は最後の準備に追われていると思います。
4月3日に回向柱(えこうばしら)建立式、
翌4日には前立本尊(まえだちほんぞん)御遷座式と
回向柱開眼法要が執り行われます。
本堂前に回向柱が立ち、
本堂に遷座された前立本尊と善の綱で結ばれることにより、
人々は回向柱に触れて前立本尊と御縁を結ぶわけです。
<前回の御開帳(2009/5/24)>
さて、現在の本堂は宝永4年(1707)に再建されましたが、
再建当初から御開帳の場となっていたわけではありません。
現在のように本堂で御開帳が執り行われるようになったのは、
天明5年(1785)のことでした。
実に再建後78年もたっています。
<国宝 善光寺本堂>
天明5年といえば、浅間山の噴火や全国的な飢饉で、
いたるところに餓死者が出た時代。
当時念仏堂と呼んでいた本堂での、
初めての御開帳(居開帳ともいう)を采配したのは、
善光寺大勧進第80世住職、等順(とうじゅん)でした。
(等順を79世とする研究者もいる。)
<等順自筆のお名号(大勧進宝物館蔵)>
江戸時代、善光寺は東叡山寛永寺(東京都台東区上野)の末寺に置かれ、
善光寺を統括する別当職は寛永寺が任命し配置されていました。
等順は善光寺町に生まれ、寛永寺の支院、護国院の住職を経て、
善光寺別当職として寛永寺により配属されました。
実は近世における地元出身の善光寺別当は、等順唯一人なのです。
御開帳の善光寺といえば、600万とも、700万ともいわれる
参拝者が全国から訪れるわけですが、
振り返れば、過去にその基礎を築いた先人たちがおられるわけです。
中でもひときわ威光を放つ等順に光を当て、
その史跡を訪ねながら、
御開帳の今年、善光寺街道を歩きます。
この場でも、等順大僧正の輝かしい功績を一つずつ取り上げていきます。
次回は浅間山の大噴火と等順の関係です。
投稿者:善光寺街道歩き旅推進局